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「わかりました」なら「わかった感」を出さなきゃダメ、という話

本学園では、株式会社フロムページが運営している「夢ナビ」というサービスを導入している。大学教員による講義内容を動画で見たり文章で読んだりすることにより、進路の検討であったり、SDGsに対する理解・関心の向上であったりの一助となれば、というものである。

いうなれば、自分の関心がどこにあるのか、そしてそれを何にどう生かしてゆけるのか、といった、まさに「自分自身」を知り、考えてゆくための「探究活動」であるため、「総合的な探究の時間」を用いて、送られてきた「夢ナビ講義シート」を読み、その内容をまとめてみよう、ということをやった。

その際に、常々思っていることではあるが、あらためて考えさせられたことがあったので、ここに書き記しておこうと思う。


「わかりました」とは

例えば、「空はなぜ青いのか」に関する説明を読んだり聞いたりしたとしよう。

そしてその説明を、自分なりにまとめる。

このとき、

「空が青い理由がわかりました」

だけ書く。

これは「まとめ」になっていないのである。

つまり、この「まとめ」を読んでも、「空はなぜ青いのか」、その理由が全くわからないのである。

「わかりました」と言っているのに、「わからない」。

わかったなら「わかった感」を出してほしい。つまり、「何がどうわかったのか」が大事だと思うのだ。

さらに付け加えて言えば、「空が青い理由がわかりました」という「まとめ」からは、「その理由とは?」以外の疑問が何一つ生まれてこない。それもこれも、具体性が皆無だからである。

何か1つでも具体的な要素が入っていれば、「◯◯って何?」とか、「ここってどういうこと?」といった、新たなギモンが生まれてくる余地ができるはずなのである。

(ちなみにこの「空の例」は、本当に授業中にたまたま思いついたものである。今、どなたかがまさしく「空はなぜ青いのか」という記事を用意しているようだが、全くの偶然である。いやいやマジで。)


「わかりました」のであれば

世界史や日本史の授業でも、折に触れて「自分の言葉で」自分なりの振り返りをし、わかったことやわからないことをまとめようと言っている。

これにはいくつかの意図があるが、最も肝要なのは、「自分の言葉で説明できるのであればそれは理解できているということだし、逆にわかったつもりでいても、説明できないのであればそれは理解できていない」ということであろうと思う。

例えば、出現期古墳について学習したのであれば、

「古墳のことがわかりました」

ではなく、

西日本の各地で共通の墓制が見られるようになったことは、この頃の西日本に広域の政治連合が誕生していた可能性を示している。また、出現期のものとして最大の古墳が大和(奈良県)にあることから、この地が政治連合の中心であったと考えられ、それゆえにこの政権をヤマト政権と呼ぶ。

ぐらいのことを、

漢王朝の歴史について学習したのであれば、

「漢のやったことがわかりました」

ではなく、

農民出身の高祖劉邦が建国した前漢は、当初郡国制をとったが、次第に中央集権化を進めるようになった。前漢の最盛期を現出した武帝は西域に進出したほか、朝鮮半島やベトナム北部にも支配を広げた。武帝の死後は外戚が実権を握るようになり、漢は一度滅ぶが、後漢の光武帝により再興された。その後は宦官が横暴を極めたほか、生活苦から黄巾の乱も発生し、やがて後漢も滅亡して中国は分裂の時代を迎えることとなる。

ぐらいのことを書いてほしいし、

フランスの宗教内乱について学習したのであれば、

「宗教問題はいろいろ大変だと思いました」

とかではなく、

旧教国であるフランスでもカルヴァン派プロテスタント(ユグノー)の勢力は増大しており、ついにユグノー戦争と呼ばれる内乱へと発展した。1572年には旧教勢力によるサンバルテルミの虐殺も発生し、深刻な分断を抱えたまま、内乱は長期化した。こうした中、ユグノーのリーダーでありながらフランス王に即位し、ブルボン朝を開いたアンリ4世は、ナントの勅令を発布し、自らがカトリックに改宗するのと引き換えにプロテスタント信仰の自由を保証して、内乱の終息と国内の統一を図った。

ぐらいのことを書いてほしい。

作文が苦手であれば、文章でなくとも、箇条書きや図式化などでもよい。これは大学で必ずやることになるレジュメの作成につながるスキルである。とはいえ、文章構成力は早いうちから培っておくべきであるが。

余談だが、「今北産業」という言葉をご存知だろうか。
「このスレッドに今来たばかりで、ここまでの流れがわからないから、誰か3行で教えてくれ」という意味のインターネットスラングである。
「今北産業」されると、大抵の場合誰かが箇条書きでレスしてくれるが、マジレスであるとは限らない。本記事の場合は以下のような感じか。

 ・「わかりました」と言っている
 ・何がわかったのかがわからない
 ・具体的に言え

・・・これ意外と要点抽出の練習になるのでは?

いずれにしても、情報の取捨選択論理性の構築に留意しつつ、工夫を凝らして自己表現に努めてほしい。

ちなみに、教科書やウィキペディアの文言をそのままコピペすることには全く意味がない。それは単なる作業であり、それに費やす時間も労力も全くの無駄であるので、やらない方がマシなぐらいである(とまで言っては言いすぎだろうか)。

社会科は暗記科目ではない」と常々言っているのも、これと全く同じ話である。理解に努めることによって、結果的に知識が定着することは大いにあり得るが、暗記自体を目的として暗記したことにより、何かが理解できるということは起こり得ないからである。

私はよく「映画トーク」を例に取る。
とある映画の話をしようとするときに、「登場人物の名前は全員分完璧に覚えているが、ストーリーはまったく知らない」という人と、「登場人物の名前は多少忘れているものの、話の流れがある程度頭に入っている人」、どちらの方がその映画を楽しんでいそうと感じるだろうか。


アウトプットは自分のため

さて、「説明」というと、いかにも「他人に言って聞かせ、教えること」という感じがするかもしれないが、説明も含めたアウトプットは、必ずしも他人に対する働きかけであるとは限らない

アウトプット」は、自分自身の理解や考え、感情、情熱、気持ち、そういった、本来自分の中にしかないものを、文字通り「表に現すこと」、すなわち「表現」することである。

それによって、自分の中に漠然と存在していた何か曖昧なものが、明確な「」をもって立ち現れてくる。そしてそれは、ある意味で自分の中から抜け出たものであるので、客観的に眺めることができるようになるのである。

プラトンは、「目に見えているもの(姿かたち)は、壁に映った影のようなもので、所詮は虚像にすぎないのだ」というようなことを考えた。

また、アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリは、「大事なものは目には見えない。心で見ないとね。(On ne voit bien qu'avec le coeur. L'essentiel est invisible pour les yeux.)」と言った。

言ったが、「目に見えないもの」は、自分でもやはり客観的に観察しづらいのである。

独り悶々と悩むあまり、何の行動も起こせずに、ただ時間だけが過ぎていった、という経験はないだろうか。
そしてそのことを、思い切って誰かに相談してみたところ、少し気持ちの整理ができたような気がして、落ち着いた、というような経験はないだろうか。

この場合、「思い切って誰かに相談してみた」という部分が、まさに「アウトプット」である。相談するということは、悩みや問題点の「言語化」をともなう行動であるからだ。その結果、あたかも霧が晴れて視界が開けてゆくかのように、自分の中だけでモヤモヤしていたものがだんだんとクリアになってゆくので、落ち着いて問題と向き合うことができるようになるのである。

このように、アウトプットをすることは、自分の知識や理解だけでなく、気持ちや問題点も含めた現状を整理して「可視化」することでもある。

そしてそれをしないことには、問題点に気付けない、つまり、乗り越えるべき課題を発見できないということにもなりかねない。

「わかりました」という「まとめ」の話に戻ってみると、具体的にアウトプットしてみることによって、はじめて「本当にわかっているのか」、「どの程度わかっているのか」、あるいは、「わかっていないということ」が、「わかって」くるのである。

ソクラテスは、対話というアウトプットを通して相手の無知や矛盾に気付かせ、そこからさらに深い思考を促した。一例を挙げると、以下のようなものである。

ソ = ソクラテス  青 = アテネの青年

ソ「友人にウソをつくことは不正だろうか」
青「もちろん不正ですとも」
ソ「では病気中の友人に、薬をのますためウソをつくことも不正なのかい」
青「それは不正とはいえないでしょうね」
ソ「それじゃ、なんだい、友人にウソをつくことは不正であり、不正でないことになるじゃないか。いったいウソをつくことは正か、不正か、はっきりしてほしいな」
青「もはや私にはわからない」
ソ「よろしい。君は今までウソをつくことは正か不正か知らなかったくせに、知っているとみずから思いこんでいたのだね」
青「その通りです」

南部ヤスヒロ、相原コージ『4コマ哲学教室』イースト・プレス、2006年。

「知らないということ」を知ることは、恥ずべきことではない。
むしろ、「知らないという事実」に目を背け、「知ったふり」をし続けることの方が恥ずべきことなのであって、「知らないということ」を自覚することは大いなる「気付き」であり、そのことによってはじめて探究への扉が開かれるのである。

本当に「わかりました」と思ったときには、わかった喜びや満足感、達成感、安心感、あるいは責任感や使命感、新たな問題意識、次なる知的好奇心などなどが湧き上がってきそうなものではあるが、如何に「わかりました」と思ったとしても、一度は立ち止まり、何らかの形でアウトプットしてみることによって、自らの認識を確認するゆとりを持ちたいものである。

それが、次の段階へと進む、第一歩となるであろうと思うのである。


「雷の後には、雨が降るものだ」
ーソクラテス

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