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学於note ~一番大事なもの~

ごきげんよう。

教員Hの学於note(ガクオノート)です。

正則学園のnoteで「へぇ~」となることを提供できたらいいな、の国語編です。

「漢文」をテーマにお話ししていますが、いつも「スキ」押していただいている方、ありがとうございます!


卒業シーズンですね。

卒業生に毎年話をする「送る言葉」については以前の記事に書いたのですが、(こちら↓)

もうひとつ生徒に必ず話す言葉がありまして、今日はその言葉について書いていこうと思います。


なんやかんやいって一番大事なものは

今日のお題の漢文はこちら

鸚鵡能言、不離飛鳥。猩々能言、不離禽獣。今人而無礼、雖能言、不亦禽獣之心乎。

『礼記』曲礼上

また長く感じるかもしれませんが、まずはいつもと同じく動詞になりそうな漢字を見つけましょう。今回は句読点(「、」と「。」)を入れているので、言葉の切れ目も分かりやすいと思います。

さて、少しずつ見ていきましょう。

鸚鵡能、不離飛鳥。

太字は動詞になりそうな漢字です。

「鸚鵡」は難しい漢字ですが、「おうむ」です。「オウム返し」などで知られる、人の声マネをする鳥ですね。

「能」は「よく」と読み、「よくできる」「能力がある」という意味です。「能言」とはつまり、「よく言葉を話せる」という意味になります。

「離」に「不」が付いているので、「離れない」ですね。

「飛」は「鳥」とくっついて、そのままですが「飛ぶ鳥」です。ここでは動詞ではなく修飾語でしたね。

さて、「不離」と「飛鳥」の関係で考えると、「飛鳥」を「離れる」ことが「ない」となります。

続けて訳すと、「オウムはよく人間の言葉を話せる、が、飛ぶ鳥の仲間から離れることはない」となります。

猩々能、不禽獣。

続きの言葉も同じ構造です。

「猩々」(しょうじょう)とは、簡単に言えば猿の妖怪です。

ジブリ映画「もののけ姫」の中で、「オレ、ニンゲン、クウ」と言ったり、石や木の枝を投げつけてきたあれも「猩々」です。

つまり「猩々」も「人間の言葉を使える」、しかしその「猩々」も、「禽獣」、いわゆる「ケモノ」から「離れることはない」という一文です。


今人而無礼、雖能、不亦禽獣之心乎。

さて最後の一文です。

「而」は「そして」や「しかして」といった接続詞に使われる、漢文ではよく出る漢字ですね。

今回は、「今、人にして礼無ければ」という読み方で使います。

「雖」は「~といえども」と読む漢字です。日本語読みを文法で分解すると、「言う」+「接続助詞ども」という成り立ちです。格助詞「と」の下に付いて、逆接の確定条件または仮定条件を表すことができます。まぁ、難しい話はいいです。

ここでは、「能言」から返って読むことで「能く言うといえども」、つまり「たとえ人間の言葉をよく話すことができても」と訳すことができます。

最後の一節に見える「不亦~乎(また~ならずや)」は「詠嘆(~だなぁ)」としてよく解説されていますが、この場合は「乎」を疑問を表す助詞として取り扱います。ただし読み方は一緒です。

なので、「また禽獣の心ならずや」と読むことができ、直訳すると「禽獣の心(と一緒)ではないか」となります。


それではまとめて読んでみましょう。

鸚鵡は能く言えども、飛鳥を離れず。
オウムは人間の言葉を話すことはできるけれども、鳥の仲間からは離れられない。

猩々は能く言えども、禽獣を離れず。
猩々も人間の言葉を話すことはできるけれども、獣の仲間からは離れられない。

今、人にして礼無ければ、能く言うと雖も、
もし人間でありながらも礼儀がないならば、たとえ人間の言葉を話しても、

亦た禽獣の心ならずや。
まったく獣の心と変わりがないではないか。

「鸚鵡は能く言えども、飛鳥を離れず」ということわざ・慣用句としてネット上の国語辞典にも載っていますが、「口先ばかり達者で、実際の行動が伴わないことをいうたとえ。」と解説されています。また、「鸚鵡能言」という四字熟語としても、同じ意味で解説されています。

しかし本来は、今回お話ししてきたように、「人間は立派な言葉を使っていても、礼儀をわきまえないと獣と同じに成り下がるぞ」という意味を持つ文なんです。

出典の『礼記』については編纂の経歴が複雑ではありますが、ものすごーくざっくりいえば、中国の漢時代、約2000年前からある経典です。儒教において最も大切にする経典「四書五経」にも数えられています。

儒教もものすごーく簡単に言えば倫理、つまり道徳的修養を積むものです。

そこで読まれる文の中で、「人間と動物との差は、言語を用いるか(知識を持っているか)ではなく、礼儀を持っているかである」といっているんですね。

この「礼」というものも分類すれば複雑で、話せば長くなりますが、私は生徒に話をするとき、「あいさつをする」「マナーを守る」「モラルをもつ」といった簡単な言葉にして伝えています。

武道の道場訓としてよく使われる言葉に「礼に始まり礼に終わる」というものがあります。何事も礼に尽きるということです。

複雑な「礼」を前提に話すと混乱するので、「あいさつ」に限定しましょう。教員H、中学高校時代廊下ですれ違う先生に必ずあいさつ・会釈をしていたら、「いつもちゃんとあいさつしてくれる生徒」として授業で習っていない先生にも覚えてもらっていました。「あいさつ」によって話したことない人からも「プラスの評価」が得られるってことです。それくらい「あいさつ」というものは大事というか、重要というか、パワーのあるものなんです。

これは教員Hの「あいさつ論」ですが、あいさつをするには視野や心を広く持って、まず人に気付くことが大事だと思うんです。先生や先輩にまず気付くこと。それから短くても会釈でもいいからすぐあいさつすること。そして返事を求めないこと。

「あの先生はあいさつしても無視するからもうしない」といっている生徒もいますが、「その時はたまたま何かあったんだよ。伝わってるから、もうしないとか言うなよ」と伝えてます。

視野を広く持つためには視線は自然と上がります。周囲の変化に気付くことで危険回避能力も上がるでしょう。視線が上がれば見た目も明るくなります。第一印象も変わります。

いいことづくめだと思うんですよ。

「あいさつしなさい」なんて人から言われてもしょうがないことですが、「大事だよ」とは毎年伝えています。

はい、こうして今回の学於noteのタイトルにつながるわけです。

なんやかんやいって一番大事なものは「あいさつ」よ、と。(笑)

生徒のみなさん、自発的なあいさつで活気のある学校生活にしましょう!!

それでは、ごきげんよ~う♫