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メダカの学校で基礎教養を学んでみたらその内容が深すぎた件🎓

EMP:いやー、ABCの気持ちがわかってきたよ。

ABC:なんですか?

EMP:(筆がというかキーボードが)ノらないときは本当にノらないもんだねぇ。今ひとつ面白くならないんだよなー。

トム:メダカの水槽に仕切り板入れるとどうなるか知ってる?

EMP:(おっ、なんだいきなり?)

ABC:(ネタ提供クルー?✨)

トム:仕切り板を外してもその範囲から出ないんだよ。テリトリーができるんだ。

EMP:Σ マジっすか!

ABC:Σ そうなのか!

トム:テリトリーの外に出るようにするにはどうしたらいいかわかる?

E&A:( ⌒ ͜ ⌒ ) ❓

トム:もう一匹入れればいいんだよ ( ̄ー ̄) ニヤリ

E&A:(  ゚д゚) ❗❗

トム:これ結婚式のスピーチで使うといいよ。二人になるとね・・・って。

EMP:それで書いてくれるんですねわかります

トム:書かないよwww


そう言い残し、トム先生は颯爽と授業へ向かったのであった📐(なんだかかっこよさげ)。


UI:メダカの「群れ」ですからね。それを school っていうのに、「学校」って訳しちゃったから。だから「メダカの学校」なんですよ🏫

EMP:ほー!✨

ABC:Σ そうなのか!


そう言い残し、UI先生も颯爽と授業へ向かったのであった📖(またなんだかかっこよさげ)。


ABC:school って「学派(流派)」って意味もありますからね。ラテン語の「スコラ」から始まってる。

EMP:あ、学派ね!


そう言い残したが、ABCはこの日もう授業がなかったので、そのまま自席でそっと note の編集画面を開いたのであった💻(かっこよさげではない)。



(、 `・ω・) ▄︻┻┳═一 ------------------------------------------------------------☆



それにしても、メダカの school って「学校」ではなく「群れ」だったのか。ふむふむ。なんだか面白くなってきたぞ。

そう思ったならすぐ調べよう 💡(久々

ということで、こんなブログ記事👇を見つけました。

おっ? 同じようなことが書いてあるぞ。
なになに・・・?

んっ、語源が違う・・・?

学習の場であるschoolと
「群れ」を意味するschoolは
お互いに無関係

なの!?

えー、全く同じ単語なのに???

英語の school の語源である、ラテン語の「スコラ」。
その意味は、教会や修道院の「付属学校」(てことは、ラテン語とはいっても中世の話なんですね)。
そしてそこで議論が交わされた哲学だから、「スコラ学」というわけです。

しかしその「スコラ」の語源は、古代ギリシア語!
(実はこれ、欧米語あるあるですね。やっぱりギリシアはヨーロッパ文明の母なのだなぁ。)

そしてその古代ギリシア語の「スコレー」・・・かな?
その元々の意味は・・・なんと「」❗❗

いやいや、暇だからこそ、プラトンのアカデメイア(アカデミーの語源)やアリストテレスのリュケイオン(フランス語のリセ = 高校 の語源)のような場所に集まって喧々諤々と議論するのです。

暇だからこそ、古代ギリシアでは高度な学問が発達したのですね 💡

え、でも古代ギリシア人ってそんなに暇なの? 仕事は?

そうなんですね。

古代ギリシアでは、労働なんていうのは奴隷のすることだったのです。

だから奴隷をご所有になられるような高貴な御身分の御方は、その有り余るお時間を、真理のご探求や精神のご修養、肉体のご鍛錬等に充てておられたのですね 💡

ちなみに、その後のヨーロッパにおける労働観の変遷について、書きたい欲が抑えきれなくなったので、文末にコラムとして書いておきます。もしよろしければご覧ください。もはやメダカも学校も全く関係ないですがw

さて、ぶっちゃけここまでは知ってました。一応世界史教員なのでw

ということで、学校は「暇」に由来するということでした(いいのか、そんな表現で)

問題はここからですね・・・。

「群れ」を意味する school について、先程のブログでは・・・

「群れ」の方の「school」の語源は 中期オランダ語の schole
中期オランダ語とは12世紀~15世紀くらいまでの
オランダ語のことを指します
(中略)
この schole という単語は
「多数」「たくさんの」「大勢」という意味だそうです

な、なんだってーっ!? (;  ・`д・´)

中期オランダ語? ( ・´ω・`)

さらに、現代英語の shoal という単語も、同語源で「群れ」とか「多数」とかいう意味らしいです。そうなの? SN先生??

であれば、なんで2単語に分かれたんでしょうね? 教えてSN先生 (>_<)

って思ったけど、そのあたりもブログの後半で書かれてましたw
ここであんまり引用しすぎてもいけないので、気になった方は是非そちらのブログの方でご確認くださいねw

それにしても、ブログの中で紹介されている Scientific American の 

Why Fish Don't Need to Be "Schooled" in Swimming

というタイトルの付け方、なんとも知的で詩的で素敵です ✨
(僕も微妙に韻を踏んでしまいましたw)


・・・・・・✈

それはそうと、12~15世紀頃のオランダといえば、農地拡大のための干拓が進み、ブルゴーニュ公国の支配下からハプスブルク家の支配に移っていく頃かな。

その頃のイングランドはというと、プランタジネット朝の成立から百年戦争と薔薇戦争を経て、王侯貴族も徐々にそのアイデンティティを、フランス語文化から英語文化へと切り替えてゆく時期だな。

(1066年にフランスのノルマンディー公ギョーム2世に征服されて以来、イングランドの支配者層の言葉はフランス語だったのです。)

ノルマン・コンクエスト

んー、この頃のイングランド人がわざわざオランダ語から語彙を取り入れる理由ってなんだろうなー???

しかも取り入れた単語が、(主に魚の)群れを表す言葉。
土地の低いオランダは、魚捕りに長けていたからなのか???

さらにどうやら、オランダ語の schole の語源っぽいものが、ゲルマン祖語(Proto-Germanic)の skulō らしいとかいう情報もあって・・・??

あれですね。
たしかに英語には、ラテン語やその派生形の1つである古フランス語から取り入れられた語彙が多いのですが、忘れてはならないのは、もともと英語はゲルマン系の言語だということですね。

English とは、「アングル人の」いう意味ですね。
同様に、Englandもまた、「アングル人の土地」という意味です。

このアングル人を含む、5世紀以降にブリテン島に侵入したゲルマン系の諸民族(総称してアングロ=サクソン人)の起源は、ドイツ北方のユトランド半島周辺とされており、地理的にも、北海を渡った後よりは、その前の方が取り入れやすいのではないか

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つまり、中期オランダ語を経由したと考えるよりも、ゲルマン祖語の skulō から直接取り入れたと考えた方が、なんとなく腑に落ちるような気がするんですが、どうなんでしょうね?

Wiktionaryで skulō の派生を見てみましょう。

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ふーむ・・・少しずつ形を変えながら、西ゲルマン語系の諸言語に受け継がれていったようですね。

いくつか興味深い点がありますね。

まず、English が2箇所出てきてますよね?
一番上の English は、どうも skulō から直接派生したようで、現代英語の shoal に辿り着いてます。

一方、下の方の English。
これがどうやら中期オランダ語の  schōle から派生して、中英語の scole という形を経て、現代英語の school に辿り着いているようですね!

てことは何かい!?
語源が同じで、どちらもおおよそ「(魚の)群れ」って意味なのに、shoal とは微妙にニュアンスの違う school を、中世盛期になってから輸入し直したと、そういうことかい!? なんで!?💦

もう一つ気になるのは、これまた下の方。
Frankish(フランク人の話した古フランク語)から古オランダ語に派生していますが、そのまま現代オランダ語まで辿っていくと、school という形に辿り着いてます。

ということは、なんと、現代オランダ語でも(魚の)群れは school!?
さらに、調べてみたところ、どうやら学校も school!!

オランダ語でも英語と全く同じ現象が起こってるっぽいのです・・・!

そして、見落としてはいけないのが一番下!
古オランダ語と同じ高さで、Latin(ラテン語)にも派生していますね。

しかも、ラテン語に派生した形が schola(スコラ)・・・!?
(わざわざ “troop of soldiers” と付記されていますね。部隊を指す軍事用語だったのでしょうか・・・?)

この時点で、「暇に由来する学校」ことギリシア伝来の「スコラ」と、古フランク語由来の「スコラ」(こちらは「群れ」というか部隊?)は、既に同じ形をとっていたのではないかと考えられますね。

そしてラテン語とは言っても、フランク語由来だというのであれば、少し考え方が変わってきますね。

というのは、時期的な問題でして、フランク王国がそれなりに拡大してきてからのことであろうと考えられるわけです。すると、早くても6~7世紀ぐらいかな?少なくとも、古代ローマ帝国の時代ではなかろうな、とは思うわけです。

・・・・・・⛵

さー、ということで。
結論的には「よくわからない」ということになりそうですがw
(まぁそれも探究の面白いところですね)

ただまあ、とりあえずここまで調べてみて思うのは、

・言語史を何か固有の型にはめて理解しようとすることは、むしろ理解を阻害する

ということと、

・言語史的にもやっぱりゲルマン人の大移動ってスゲェ!

ってことですかねw


さて、書き終わってみると、結果的になんだか単なる世界史探究記事になってしまいました。

むしろ、まだまだ言及したいことはあるのですが、際限がないのでもう今回はこのあたりにしておきましょうw

🐟・・・・・・

あれ? ところでメダカは?

・・・なるほど。

差し詰め、「メダカはダシに使われた」ってところでしょうかね。

ダシだけに旨いこと言いましたね~。

お後がよろしいようで 🙇💦


⛏ ⛏ ⛏ ⛏ ⛏ ⛏

ここからは記事の前半でも触れたコラムですw

労働観の変遷(読み飛ばしていい部分w)

中世に入ってキリスト教が広まると、古代の労働観は一変します。
キリスト教の原点は『旧約聖書』。禁断の果実に手を出してしまったアダムとイヴは楽園を追われ、以来、その子孫である男には労働の苦しみが、女には産みの苦しみが与えられました。
この「原罪」を贖う行為として十字架上で絶命したイエス・キリストは、「隣人愛」の実践による「神の国」の到来を説いたとされます。

これがストア派(ストイックの語源)的な禁欲主義と結びついたからなのかどうなのか、キリスト教的な解釈では、労働は人に「節制と勤勉を教え」、「いかがわしいことから身を離す」、「宗教的精神修養に不可欠な価値ある行為」であると考えられるようになったのだそうです。そのためなのか、中世の各修道会の源流とも言えそうなベネディクト修道会は、「清貧・純潔・服従」を掲げ、「祈り、働け」をモットーとしました。

働くと収入が得られるわけですが、福音書においてイエスが「富んだ者が神の国に入ることよりは、らくだが針の穴を通ることの方がまだ易しい」と述べている通り、キリスト教にはもともと清貧を潔しとして、蓄財を悪とする思想があったようです。
であるにもかかわらず、中世末期を迎える頃には、カトリック教会が腐敗。教会はその権威を利用して、率先して金儲けや地位の向上に走りました。ルターなどは、少なくとも金儲けに腐心することは、信仰を阻害すると考えていたようです。

これに対し、スイスのジュネーヴで宗教改革を始めたカルヴァンは、「魂が救済されるか否かは予め神によって決められている」とする「予定説」を唱えました。

こうなると、「どうせ救われる運命に生まれているなら、何をやっても救われるし、そうでないなら、何をやっても救われないんだ」と思ってしまいそうなものですが、カルヴァン派プロテスタントとなった人々は、見事なまでにこれを逆手に取りました。
すなわち、「救われる運命に生まれているのであれば、神の意志に適った行動をするはずだ」、つまりは、「世のため人のためにせっせと働いて隣人愛を実践するはずだ」と考えるようになったのです。

せっせと働くと、より多くの収入が得られ、次第に富むようになっていきます。つまり、金儲けに繋がってしまうのです。しかし、ここでもカルヴァン派の人々は、こう解釈します。
世のため人ためにせっせと働いて稼いだお金は、それだけ神の意志に適った行動をしたという証である」、と。

つまり、お金をいくら儲けたかが、いかに隣人愛を実践したかを示す一種のバロメーターとして解釈されるようになったのです。したがって、カルヴァン派のプロテスタントが商工業者を中心に受容されていったのは、ごく自然なことだったのです。

宗教改革は、その後の主権国家体制の成立過程において、ヨーロッパ各国に国家としての宗教的態度の決定を迫りました。こうした中で、カルヴァン派の教えを採用した国の代表格が、オランダとイギリスでした。

重商主義政策の進展により、ヨーロッパ各国が国富を競い合う中で、これらの国々は積極的に海外へと進出して植民地を拡大し、E. ウォーラーステインが「近代世界システム」と呼んだ国際的分業体制を構築していきました。

一方で、国内では市民階級(ブルジョワジー)が台頭し、彼らは工場を設立して、そこで賃金労働者を雇い、より効率的な生産体制を築いてゆくこととなります。

こうして、「持つ者」と「持たざる者」、もしくは「使う者」と「使われる者」との対比を特徴とする資本主義経済が確立していったのです。

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