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火薬と花火の世界史…のつもりだったのに、またまた思わぬ方向へと話が逸れていった件

どうもこんにちは、ABCです。

今回の記事はコチラの記事👇の続編となります。

とはいえ、前回の記事ではほとんど歴史については書いていないので、この記事単体でもお読みいただけます。

ますが、もしよろしければ👆の記事も併せてご覧くださいね😀💦

さて、👆の記事ではこんなようなこと👇を書きました。

いったい花火は、いつ頃のどこで生まれ、どのようにして日本へ伝わってきたのでしょうか。それを解き明かすためには、花火の素材から考えてみる必要がありそうです。
花火の最も重要な素材は火薬でした。
であれば、花火がいつ頃のどこで生まれたのかを知るためには、火薬の歴史を紐解く必要がありそうですね🤔

ということで、今回は「火薬と花火の世界史」について探究しちゃいます!(少なくともそのつもりでした、当初は💦)

花火、日本へ

ということで(?)まずは花火の日本史から見てみましょう。

え、日本史? いやいや、日本は世界の一部じゃないですかw
それに、伝来したということは、外国から伝わったということであり、つまり世界との関わりの中でのことに違いないわけです。

さて、花火が日本に伝わったのが一体いつなのか、はっきりとはわかりませんが、少なくとも花火に関する日本最古の記録は、室町時代のものなのだそうです。

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👆 室町時代を代表する建物(鹿苑寺舎利殿)

万里小路時房(までのこうじときふさ)という公卿(公家のすごくエライ人)が書いた日記『建内記』(けんないき)の中の、文安4年(1447年)3月21日の出来事として、花火らしきもののことが記されているのだそうな。

この日、京都御所の真横(東側)にある清浄華院(しょうじょうけいん)というお寺で法事が営まれたそうですが、その夜、寺の庭で「唐人」が「風流事」(ふりゅうごと)を行ったというような記述があるのだそうです。

ちなみに現在の京都御所が皇居として定められたのは、この111年前の建武3年(1336年)、北朝の光厳上皇によってでした。

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👆 清浄華院 大殿

その「風流事」とは、いずれも「火」を使ったもので、

① 竹筒を立て、紙縒り(こより)や紙包みなどを入れて火をつけると、火がススキやキキョウ、センノウケ、水車などの形になるというもの

(吹き出し花火的なもの?このとき既に花の形に喩えているところがなんとも「風流」ですね✨

② 縄を張り、その一端から薬包らしきものに火をつけると、火が縄を伝って走り、折り返して元の位置へ帰ってくるというもの。

(イメージはできるけど、これは一体なんでしょうね?)

③ 「鼠」と呼ばれる、火をつけると走り回るもの。

(これは明らかにねずみ花火ですね!この時代からあったんか・・・)

④ 火をつけると流星のように空を飛ぶもの。

(これはなんだろう・・・ロケット花火みたいなものかな?)

などがあったそうです。
いわゆる「打ち上げ花火」的なものはまだなかったようですが、時房はこれらの「風流事」を「希代之火術也」として称賛し、いたく感銘を受けたそうです。


「唐人」から逸れてゆく話題

ところで、この「風流事」を行った「唐人」とは一体何者なのでしょう?

江戸時代の鎖国の話でも、長崎の「唐人屋敷」って出てきますよね。これもそうなのですが、「唐人」とは中国人のことです。

日本と中国との関わりは、遅くとも『漢書』地理志に「歳時を以て来り献見すと云ふ」(定期的に朝貢しにやってくる)と記された紀元前1世紀には始まっているわけなので、室町時代の日本に中国人がいたことを不思議に思う人はあまりいないかもしれませんが、実はこの少し前まで、日本と中国との間に正式な国交はありませんでした(商人らによる私貿易は行われていましたが)。

日中の国交が再び開かれたのは、室町幕府の三代将軍足利義満によってでした。いわゆる「日明貿易」です。海賊船でないことを証明するために「勘合」と呼ばれる割印の書状が用いられたため、「勘合貿易」とも呼ばれますね。

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👆 足利義満

この日明貿易ですが、日本が中国の手下となって朝貢し、将軍は中国の皇帝から「日本国王」として認めてもらうという形式だったため、これに反発した四代将軍足利義持によって停止されたのですが、その後六代将軍足利義教(通称くじ引き将軍)によって再開されました。

清浄華院で「唐人」が「風流事」を披露した文安4年(1447年)は、七代将軍足利義勝死後の空位期でしたが、すでにその弟義成(後に改名して足利義政)が後継者に内定している時期でした。

したがって、この頃には正式な国交に基づいて日明貿易が行われていたのであり、京の都に中国人がいたとしても不思議ではありませんでした。

しかしその京の都を破壊し、日明貿易の混乱と衰退にも繋がってゆく「応仁の乱」が、この20年後に迫っていました。この大乱をきっかけとして、日本は戦国時代へと突入してゆくのです。


なぜ「唐人」というのか

ところで、「唐人」の「唐」とは、本来は7世紀から10世紀初頭にかけて存在した中国王朝のことを指します。この頃の日本は飛鳥時代~平安時代前期に当たり、かの有名な「遣唐使」を派遣して中国の制度や文化を学び、「律令国家体制」を整えていきました。

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👆 遣唐使船

その唐も907年に滅亡し、その後も中国では、主要なものだけでも4つの王朝(宋・元・明・清)が興亡を続けました。

時房が「風流事」に感動した室町時代、中国の王朝は「」でした。
また、「唐人屋敷」が作られた17世紀後半(元禄年間)には、中国の王朝は既に「」になっていました。

このことからもわかるように、昔の日本では、いかに王朝が変わろうとも中国のことを「唐」と呼んでいたようです(表記は「唐土」だったり「大唐」だったりもしたようです)。

そしてここでのポイントはその「読み方」!
日本では、「唐」とか「唐土」と書いて「もろこし」と読んでいました。

どうやったら「唐」が「もろこし」と読めるんだって話ですが。。
そこにはこんな説があるのだそうです。

古代、中国南部のいわゆる「江南」(長江の南の意)の浙江省あたりからベトナム北部に至る広大な地域に、越族とか百越などと呼ばれる民族が住んでいました。百越は「諸越」と書かれることもあったようです。「諸越」であれば「もろこし」と読めますね!

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👆 長江河口の南方、杭州湾の出入り口に位置する会稽(現在の浙江省紹興市)は、春秋時代には「呉越同舟」「臥薪嘗胆」などの故事成語で知られる「越」の国の都でした。

この「諸越」地域と日本との関わりは深く、7世紀後半に朝鮮半島の新羅と対立するようになって以降の遣唐使は長江下流域に上陸するようになりましたし、古くは古墳時代の「倭の五王」も中国の南朝に朝貢していました。(もっと言うと、稲作が伝播したルートも長江下流域から東シナ海を渡って九州に上陸したのではないかとする説もあります)

このことから、次第に「もろこし」は中国全体を指す言葉となり、さらにアジア全域に絶大な影響力を誇った「」王朝と結びついて、「唐 = もろこし = 中国」となっていったのだそうです。


もはや「蜀」も「唐」も「中国」=「外国」

そしてさらに、昔の日本にとっては外国といえば中国だったからなのか、次第に「唐」という言葉は漠然と外国を指す言葉となっていきました。もはや中国でなくても、外国であれば「唐」と呼ばれるようになったのです。

15世紀、香辛料の獲得やカトリックの海外布教を目的としてポルトガルやスペインが海外進出を始め、ヨーロッパは大航海時代に突入しました。

1492年、スペイン女王イザベルの後援で大西洋を横断し、「新大陸」(アメリカ大陸のこと)を「発見」したクリストファー・コロンブスは、実にさまざまなものを新大陸にもたらし(それまでアメリカ大陸に存在していなかった牛・馬・車輪・鉄器などのほか、梅毒などの伝染病も含みます)、また、ヨーロッパに持ち帰りました(コロンブス交換)。このとき持ち帰ったもののひとつが「トウモロコシ」でした。

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👆 サンサルバドル島に上陸したコロンブス

南北アメリカ大陸の各地で盛んに栽培され、主要な食物のひとつであったトウモロコシは、瞬く間にヨーロッパ中に拡散し、ジャガイモなどとともにヨーロッパの食生活を激変させました

そんなトウモロコシが日本に伝わったのは、一説によると16世紀後半の天正年間(織田信長の頃ですね)だそうで、いわゆる南蛮貿易により、ポルトガル人によって伝えられたのだそうです。

察しの良い読者の皆様は、前章の「唐 = もろこし」のあたりでお気付きでしたよねw

そうなのです。アメリカ大陸原産で、少なくともヨーロッパ経由で伝わったものなのに、「トウモロコシ」というわけです。まるで「中国中国」と言っているような呼称なのです。これは一体どういうことなのか??

トウモロコシは、なんと漢字で「玉蜀黍」と書きます(!)
これを「トウモロコシ」と呼ぶのは、室町時代には既に中国から伝わっていたとされる「モロコシ」という植物とよく似ていたからなんだとか。似ているだけで、全く別の植物らしいんですけどね。

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👆 トウモロコシ畑(左)とモロコシ畑(右)👆
実(み)は似ていませんが、幹や葉などの全体像がよく似ています

そしてこのモロコシ、漢字で「蜀黍」もしくは「唐黍」と書きます。
「黍」は「キビ」と読みますが、キビもまた全く別の植物なんだそうな。

一方で、「蜀黍」の「蜀」。
蜀とは、中国西方の四川省周辺の歴史的な地域名ですね。三国志で有名な劉備玄徳が「蜀」(蜀漢)を建国したのもこの辺りです。

三国行政区划(简)

👆 三国時代の中国。オレンジ色の部分が「蜀」

モロコシはアフリカ原産と考えられているそうなので、中国にも西方から伝来したのだろうな(だから蜀が付くのかな)ということは想像できますが、なぜ「蜀の黍」と書くのか、はっきりしたことはわかりませんでした (+_+)

ただ、「唐黍」と表記されることもあることから、日本では「中国伝来の黍」というように捉えられていたのだろうな、とも想像できますね。

そして安土桃山時代になって「南蛮人」(ポルトガル人やスペイン人のこと)によってもたらされた、モロコシにそっくりなトウモロコシ。

これも一説によると、当初は「舶来の」つまり「外国からやってきた」という意味で「唐」を用い、「唐蜀黍」あるいは「唐唐黍」となって、文字通りの(??)「トウモロコシ」という読みになったというのですが、もはや「蜀」も「唐」も「中国」=「外国」という意味になっていたようですw(もうワケがわからなくなってきますね???)

これではまるで「中国中国キビ」もしくは「外国外国キビ」と書いているようなモノなので、読み方はそのままに、最初の「唐」を「玉」に変えて、「玉蜀黍」となった、ということなのだそうですw

ちなみにここでいう「玉」は、「美しい」という意味で使われているのだとか。

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👆 そんなことを書いているちょうどそのときに、なんとも立派なトウモロコシをいただきました!すごく甘くて美味しいのだそうです 😍

トウモロコシについてはコチラ👇でも!

ということで、この章ではすっかり(うっかり?)花火でも火薬でもなく、トウモロコシの謎を紐解いてしまいました。「火薬と花火の世界史」とは、一体何だったのか・・・。


ついでに言及しちゃいますと・・・

唐辛子」も「トウモロコシ」と全く同じ現象が起こっている例ですね!

ピーマンやシシトウ、パプリカなどの甘味種を含むトウガラシは、中南米原産で、やはり16世紀後半の安土桃山時代に伝えられたようです。

「辛子」と付いていますが、いわゆる「からし」は中央アジア原産のカラシナという植物の種子から作られます。カラシナはアブラナ科、トウガラシはナス科なので、全く別の植物です。

また、唐辛子の別表記として「蕃椒」があり、現代中国語では「辣椒」というようです。(神田錦町の名店「辣椒漢ってそういうことだったんですね!💡)

どちらも胡椒の「」という字が入っていますが、「椒」とは、本来はミカン科サンショウ属の植物のことでした。日本で鰻の上に乗っていたりする山椒や、麻婆豆腐などの四川料理に使われる花椒などのことですね。

一方で「胡椒」はインド原産
「胡」は中国から見た西方ないし北方の異民族のことを指しており、秦漢時代にはもっぱら匈奴のことを、そしてシルクロードによる東西交易が活発となった唐代にはもっぱらイラン系のソグド人のことを指したようです。

このことから、西方から中国に伝わったものにはしばしば「胡」の字が付けられるようになりました。胡瓜(きゅうり)や胡麻(ごま)などもそうですね。

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👆 SGFarm で育っているトウガラシ(ピーマン)
同じ株なのに、下の方には赤いトウガラシが、上の方にはいわゆる普通のピーマンがなっているのがわかりますか? 不思議!!


ということで

序盤こそ花火の話でしたが、「唐人」のあたりから花火の話は盛大にどこかへぶっ飛んでいってしまい、最終的には食物というか栽培植物の話になってしまいました。

でも世界史の話ではあったでしょww
何にでも歴史はありますからねー。教科書に書いてあることばかりが歴史じゃないわけですね ♪

で、「火薬と花火の世界史」は?

じ、次回こそ書きます・・・たぶん。