数学屋さんの数学小話 ~その④~
初めましての方は初めまして!前回の記事を見てくれた方はお久しぶりです!正則学園の数学屋さんことHN.つるぎ先生です!
前回は、「古代の数学者」についてお話しました。今回は暗黒時代を打破した新しい数学についてお話ししましょう。
~代数学の誕生!その場所は?~
ヨーロッパで数学の暗黒時代を迎えて早1000年。数学の暗黒時代を打破したのが、新しい数学である「代数学」です。代数学というと「一次方程式」や「二次方程式」などの計算のイメージが強いですね。実は高校の数学Ⅰで習う「命題」も立派な代数学だったりします。計算については
こちらの記事の「ストイケイアの中身②」に書いてあるように、すでに基本が出来ているのですが、「代数学(計算)は幾何学を学ぶ上でのツールに過ぎない」という認識があったため、代数学という学問として独立するには至りませんでした。では、代数学はどのようにして出来たのか?ヨーロッパでは発展できない?それならヨーロッパでない別の場所で発展すればいい!そうなんです。代数学が誕生したのはA.D.800年頃のアラビアなのです!
~ローマ数字とアラビア数字~
1,2,3,4,5・・・。皆さんがいつも使っているこの数字、実は「アラビア数字」という正式名称があります。このアラビア数字が出来たのは大体A.D.600年頃と言われていて、それまでは各国でそれぞれ違う数字が使われていたと言われています。その代表例が「ローマ数字」です。
ローマ数字の対応表
古代から広く使われていたこのローマ数字ですが、計算をする上では問題がありました。
1つ目は「3999より大きい数が表記できない」ことです。ローマ数字で表記できる数は「MMMCMXCIX」の「3999」が限界です。これは当時そこまで大きい数を扱うことが少なかったというのが原因と言われています。
2つ目は「0がない」ことです。古代ギリシャでは「1は数字ではなく単位である」と考えられていたので、0という概念がそもそも無く、「数がない」と考えられていました。これは一見計算をする上で問題はなさそうですが、「代数学」という学問でなくてはならない「加法元(足し算をする上での基準)」である「0」が無いので、四則演算のルールの体系化が出来なかったということがあります。(ちなみに乗法元は1になります。)
当時から「負の数」はあったのですが「0」が無いだけでそれだけ影響があったということですね。
そこでA.D.600年頃に誕生したのが「アラビア数字」です。アラビア数字には、「桁数表記に限界が無い」ことや「0があり四則演算の体系化がしやすかったこと」などの利点があり、代数学誕生の後押しとなりました。
~代数学の誕生とアル=フワーリズミー~
代数学誕生のベースが出来上がったところで、A.D.800代に登場したのがアラビアの数学者であり代数学の父アル=フワーリズミーです。
アル=フワーリズミー
本名「アブー・アブドゥッラー・ムハンマド・イブン・ムーサー・アル=フワーリズミー」が行ったのは「一次方程式と一部の二次方程式の解法の公式化」です。「算数と数学の違いは文字で表すかどうかだ」と言われるくらい文字で抽象化し、公式化するというのは代数学という学問にとって必須でした。彼が書いた世界最古の代数学書「ジャブルとムカーバラの書」には次のような問題の解き方が載っていました。
「根」は今でいう「解」つまり「x」のこと
これらは現代の中学校で習う「一次方程式」と「二次方程式」の基本となる問題ですが、これらの解法のすごいところが「幾何学の一部に過ぎなかった代数学が、代数学のみの解法を編み出した」という点です。このとき初めて代数学は独り立ちし、代数学という分野の確立に至ったのです。
ジャブルとムカーバラの書の誕生によって、感覚的に、または幾何学的に考えられていた「解の公式」も代数学的な手法をもって後の数学者によって証明された。代数学の基本である方程式の解法を初めて作成したアル=フワーリズミーは、代数学の父と呼ばれるようになります。(ちなみに、「代数学」を英語でいうと「algebra:アルジェブラ」と言い、「アル=フワーリズミーのジャブルの書」が語源になっていると言われています。)
今回は代数学の誕生についてお話しました。図形を用いて証明されてきた計算公式を、図形を使わず文字式だけで証明するのはとても大変なことだということが、数学史的にもわかりましたね。高校2年生の数学Ⅱの教科書にある「式と証明」の分野で苦戦している人は、図形を用いた証明を試してみると思ったより簡単にいくかもしれません。この後、代数学はヨーロッパに逆輸入され、数学は加速度的に発展していきます。
次回は、その代数学の発展の中起きた「数学の決闘」についてのお話をします!数学が好きな人も、数学に少しでも興味が沸いた人も、また見てくださいね!