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0325 知行合一

Sonne

知行合一(ちこうごういつ)
知行合一とは、「知識は行動を伴ってこそ意味がある」という意味

これを私塾「洗心洞」陽明学とし教えた人物がいます。 陽明学とは、知行合一をモットーにした中国で生まれた儒学のひとつだそうです。

そうです、これを教え私塾を開いた人物こそが、今日のこの日に起こした乱の中心人物

大塩平八郎

日本史の授業で習い、今でもこのことだったかと思い出します
教科書にも載る非常に有名な乱(事件)

と聞くと、事件だのと悪い(悪の)ことのように思うかもしれませんね、
立ち上がらざる得ない、「そういう」時もこともあるのでないでしょうか、でも本当は平穏であってほしい、誰もが起こしたくはなかったはずです、
が.........…  (にも関わらず.........…)
いったい何があったのでしょうか、気になりますね
では、3月25日のこの日のについて、見ていきましょう


大塩平八郎の乱
1837年(天保8年)に大塩平八郎たちが大坂(現在の大阪府大阪市)で起こした反乱のこと

と記載されています
(反乱と書かれると幕府目線ですかね?乱で良くないですか?と思いますが、みなさまはいかがでしょうか、最後まで読んで再度お考えいただきたいです)

3月25日

早朝
大塩平八郎が門弟20数名と共に自分の屋敷に火を付けて決起🔥
大塩平八郎の呼びかけに応えた民衆は総勢300人にも及んだと言われています。反乱を開始し、豪商達を襲い金品や穀物を奪い、奪取した物を貧しい人々に配りながら進軍

ここで、ん?何かあったなのだ!と。
つまり、大塩平八郎はどれだけ民衆と同じ立場で物事を考えられていたのかなどなど、良い思いをしている人の首を取りに行ったわけですね?
確か、天保の年号での事件や事柄というと、天保の改革、天保の大飢饉(受験ではマストですね!)。

天保4年に日本中で餓死者が多く出た(約30万人)
大雨や冷害による異常気象(今は暑くての異常気象)
食料が不足する
食料の価格が高騰
商人たちは儲けようと値上げ
これを容認した町奉行所の役人たち.........…(ここで終わらない)

大坂東町奉行でもあった
跡部良弼(あとべよしすけ)は飢饉で苦しむ人々を顧みることなく、徳川家慶の就任宣下(しょうぐんせんげ)の儀式に必要な費用を賄うために、大坂が購入した米を江戸へ回送

この出来事が、民衆の反感をさらに買いました
このような状況を見るに見かねて、我慢の限界だったのでしょう
ずっと、自分の書物ら、蔵書約5万冊をすべて売り払い、民衆の救済に当たりましたが.........…好転もせず、
この救済の行為、大坂東町奉行が「売名行為」と決めつけた

結果、大塩平八郎は、
もう民衆の窮状を救うには、奉行所や豪商共々を焼き討ちにするしかない
と考えはじめ、天保8年3月25日の早朝に事が起きたのです。

しかし、幕府の黙って見過ごすわけにはいきません

幕府が応戦

決起から、わずか半日後には鎮圧されてしまいました。

反乱軍は「救民」の旗を先頭に掲げて大砲や火矢を放ち進軍をしたため、大坂市中の1/5を焼き尽くし、市内にある家屋の多くが焼失したと言われるほど、大きな被害が出たそうです。

この乱が、のちの『天保の改革』に取り組みはじめたきっかけの出来事(事件)となったようです。
なぜ、この乱がかというと、大塩平八郎という人物だからです

気になりますよね? 大塩平八郎という人物。

では、どんな人物だったのか、ちゃんと知っておきましょう👇

(大阪といえば、ベネッセですかね?そこでベネッセのサイトより)

拳は振り上げても良いが、振り下した以上はその責任を全うすべし
(乱乱)←(じゃんじゃんがらんらんになっているだけです🙇)