書道科(家)的あの日
ごきげんよう、教員Hです。
2011年3月11日から11年。未だに3万8千人を超える人たちが避難生活を送られています。「10年を区切り」として追悼式典の多くが執り行われなくなっているそうですが、どんな形であれ、あの日を経験した人はあの光景を忘れないし、哀悼の念を抱くし、語り継いでいかなければいけないと思います。
来月4月に入学してくる新高校一年生は、当時3歳くらいでしょうか。ほとんど記憶にない、という世代が入ってくるわけです。
教員Hは当時大学3年の春休み中。空手部の合宿で千葉の海沿いにいました。
午後2時46分、午後の稽古を始めたころです。ウォーミングアップ、柔軟が終わって、基礎を始めようかという時に、道場の玄関の照明が音を立てて揺れ始めました。柔道場を借りて練習していたので、体を動かすと畳の下のスプリングによって揺れるんですね。だから地震だと気付くのにしばらくかかりました。照明の揺れが尋常じゃないくらいになったときにやっと気付き、「練習中止、外に出ろ」の号令をかけました。(教員H、実はキャプテンだったので。)裸足で民宿の駐車場に出ると、近所のビジネスホテルがグニャグニャと揺れているのが見えました。あの光景は本当に恐怖を覚えました。
民宿のおじさんおばさんたちも外に出ていて、ラジオのニュースを聞かせてくれましたが、まだまだ情報がしっかりしていない頃で、とんでもなく大きな地震があったということしかわかりませんでした。
練習再開しようとしても余震が続いたため、中止。いつでも外に出られるように、食堂に使っていた大広間に集まりました。テレビも照明もつかなくて停電に気付きました。部長(部活の顧問)に電話しても繋がらず、今回の地震はホントにやばかったんだなぁと、漠然と考えていました。
当時はスマホなんてなくてガラケーですからね。電波もほぼなくなり、情報もほぼゼロ。SNSも当時はmixi(ミクシィ)が主流ですから、広く情報を集めることは困難でした。あまりケータイの電池を消費するのもマズイと思い、筋トレやトランプ、寝るくらいしかすることがありません。時々民宿のおばさんが教えてくれる、「東北で地震があったらしい」「東日本のほとんどが大きく揺れたらしい」「津波があったらしい」「原発が壊れたらしい」というぼんやりした情報しかなく、全員自宅や実家への心配が募りました。
停電で夕飯も無し、風呂も使えないと民宿のおばさんから知らされ、暗くなる前に近所の商店に買い出しに出かけました。酒やお腹にたまりそうなものを買い、外に出るとサイレン。なんのサイレンかと思ったら、津波警報だったようです。内房だったので幸い、朝方に10センチの津波が観測されただけだったみたいですが、その時は何にも警戒していませんでした。
無警戒、そして情報不足による無知とは本当に恐ろしいものです。夜には買い漁った酒で酔い、停電によって真っ暗なおかげで見えた満点の空に感動までしていました。
翌朝、電気が復旧してテレビで見たその光景は、最初は何が何だか分かりませんでした。それが津波で、町を飲み込んでいく光景だと理解するのに、しばらくかかりました。
やっと繋がった部長との電話では、「すいません、停電で練習中止しました」「練習なんかどうでもいい、お前らは全員無事なのか!」というやり取りに涙目になりました。普段は怖い部長からそんなこと言われると思ってなかったので。でも、なんでそんなこと言われたのか、テレビに映る光景で理解しました。内房とはいえ、海沿いで合宿してるわけですからね。そりゃ心配になりますよ。
まともな合宿ができなくなったので、合宿も中止。帰る算段を始めました。電車がまともに動いてないと聞き、各駅停車を乗り継いで、やっとの思いで東京まで帰りました。電車内ではほとんど寝ていたのか、このあたりの記憶があまりありません。
先輩たちの卒業式は中止、授業開始も遅くなると発表されました。卒論を書き始めないといけなかったのですが、大学の図書館に行きたくても、本が地震で散乱したため図書館閉鎖。さらに計画停電・輪番停電などもあったので、いろんな制限のある中で卒業論文や卒業制作の準備をした覚えがあります。
11年前の話ですが、まぁまぁ鮮明に覚えている3.11です。
福島の海沿いに住んでいた先輩の実家は全員無事でしたが、やはり家は被害を受けたそうです。以前お世話になったことがあったので無事を聞いて安心しましたが、その後どうされているのかは伺っていません。
大学を卒業して初めて勤めた学校には、福島から埼玉に避難してきたという生徒もいました。
今の小・中学生も、社会の教科書や防災教育で見聞きしているかもしれませんが、当時を経験した生の声は、いろんな角度から聞き、自分事のようにする必要があると思っています。今後首都直下地震もあるといわれているわけですし、地震が起きたらどうするべきなのか、考えておくべきです。
自分の体験は電気のない生活の困難さと、情報の大切さくらいしか伝えられることはありませんが、あの時感じた恐怖は忘れないようにしたいと思っています。
さて、今日は教員Hの思い出話をしたくて筆を執った(キーボードを叩いた)わけではありません。
3.11の記事をいろいろと読んでいたら、書道科(家)として見過ごせない記事を発見したので、3月11日から数日過ぎてしまいましたが書いてみました。
宮城県の石巻市雄勝(おがつ)町は600年の歴史を持つ硯の産地として有名なんです。
その雄勝も、津波で大変な被害を受けました。
職人も多く亡くなり、国の伝統工芸品の伝承も危うくなってしまいましたが、雄勝硯復興に様々なプロジェクトが興り、また記事のように若手も活躍されています。
美しい硯ももちろんいいですが、雄勝石本来の漆黒の美しさを活かしたアクセサリーやお皿、また削った際に出る粉を材料に作ったガラスの製品など、今新たに雄勝石が注目されつつあります。
ちなみに、東京駅の丸の内駅舎の屋根に使われている屋根材も雄勝石です。
補習中の屋根材が石巻に帰っているときに津波被害を受けたようですが、その後無事に回収、改修され、東京駅補修工事に再び使われました。
正則学園から東京駅までは(頑張れば)歩いて行ける距離なので、写真撮りに行けよって感じですが(笑)
こちらの記事が詳しく載せてくれています⇑(人任せ笑)
教員Hは、コロナが落ち着いて気軽に旅行へ行けるようになったら、まずは東北に行きたいと思っています。ひとつでいいから、ちょっといい硯も欲しいなぁ。
これを読んでくれたみなさんも、これを機に、ぜひ雄勝(おがつ)の名前を覚えてくださいね!アクセサリーや食器に興味を持たれた方はぜひ調べていただくか、記事内に貼ったリンクから飛んでみてください。
それでは今日はこのあたりで、ごきげんよ~う