東西の大決戦に新たな事実が続々と
東西を2つに分けたと教えられたというか、昔から言われている日本の最大の戦となっているのが「関ケ原」
関ケ原の合戦では、石田光成vs徳川家康の2大名(武将)が戦国時代の最後の戦となり、大一番を迎え、徳川家康があっという間に数時間で決着をつけた!ということが語り継がれています
その中で、多くの要因があったのは確かです
真田、上杉、長宗我部、、、、、、、
上杉景勝
確かにこの武将は徳川には厄介な存在だったはずでしょう
そこを抑えたというか、警戒しなければならなかった存在が
東北でも有数の大名であり武将の最上家
最上義光である ということが、この記事トップにある香原斗志氏の記事にある通りです
なるほど❣✨でしかないですよね
東北は、伊達を筆頭に、最上、相馬、津軽、など
各大名が名を連ねるほど
信長の野望をやったことがあれば、なお分かり易いとは思いますが、曲者ぞろいのとんでもない武将たちがいます
信長と言えば、本能寺の変
こないだは、この明智光秀の動機が、徳川家康を招いた時にやらかした?であろう一件を、信長に怒られ、蹴られ、、、ということが最大の引き金と言われていましたし、「お~い家康」でも松潤さんが名演技をしていまいたが、最近の研究では、なんと長宗我部元親との約束をしてきた明智光秀の四国統一が無下にされたことがということが最後のきっかけとなり、最大の引き金の要因だったのでは?という説が急浮上中です
いろいろと歴史を紐解けば解くほど、しかも多くの説が出てきてと
まだまだ知らないことやタラればも多く出てくるのではないでしょうか
それは今の我々も同じ。つまり人のことの噂や憶測など言った言わないもそう、本当の真実は誰がどう知っているのか?それなのに言ったもん勝ちのこの世の中、どうかしていますね。真実はどこに。ミステリーですが、言ったもん勝ちの世の中はいい加減に真実を!(discovery)