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数学屋さんの数学小話 ~その⑤~

    暫くぶりの数学小話。正則学園の数学屋さんことHN.つるぎ先生です!

 前回は、「代数学の誕生」についてお話しました。今回は数学の発展の最中行われた「数学の決闘」についてお話ししましょう。

~イタリアの商人タルターリア~

  1500年代の偉大な数学者にニコロ・フォンタナ・タルターリアがいる。彼は貧しい商人の家に生まれ、十分な教育も受けられず戦争に巻き込まれ重傷を負い、喋るときにどもってしまうようになってしまった。(タルターリアは当時の言葉で「どもる」という意味である。)
 商人を生業としていた彼だったが、商品だったアラビア語の数学書を読むことで独学で数学を学び、3次方程式の解の公式を編み出してしまう。

タルターリア

ニコロ・フォンタナ・タルターリア

~数学の決闘とタルターリアの栄光~

  1500年代、ヨーロッパでは数学の公開論戦つまり数学の決闘が流行っていた。対決方法は「お互いに数学の問題を出し合い、多く解いた方の勝ち」といういたってシンプルなものであったが、古代から続く数学の影響力の大きさから、勝者には名声と権力が与えられ、敗者は数学界から姿を消すという、文字通り人生をかけた決闘となっていた。

 アントニオ・マリア・フィオールという数学者に決闘を挑まれたタルターリアだったが、3次方程式の問題を30問互いに出し合うという勝負に自ら編み出した3次方程式の解の公式を用いて、無事勝利を収めた。

~タルターリアと3次方程式の解の公式~

  数学の決闘で勝利を収めたタルターリアは、3次方程式の解の公式を編み出した人として有名になる。数多くの数学者がタルターリアのところに訪れ、3次方程式の解の公式を教えてもらえるよう懇願したが、商人であるタルターリアは「3次方程式の解の公式の価値」が分かっていたので、教えることは無かった。

3次方程式の解の公式

そのような中、大学教授であったジェロラモ・カルダーノはタルターリアのところを訪れ、「タルターリアの3次方程式を本として出版しないことを条件に伝授してほしい」と言い、「公表されることが無いならば・・・」ということでカルダーノに3次方程式の解の公式を伝授することになる。これが悲劇の始まりでもあった。

~偉大なる術(アルス・マグナ)~

  3次方程式の解の公式を伝授されたカルダーノは、数年後ある数学者の論文で「タルターリアが導き出した解の公式と似たもの」を発見する。そこでカルダーノは「タルターリアから教わった方法ではないから、出版してもいいだろう」と偉大なる術(アルス・マグナ)という名で本を出版してしまう。これを見たタルターリアは激怒し、カルダーノに数学の公式論戦を申し込むのであった。

カルダーノ

ジェロラモ・カルダーノ

~対決!タルターリアvsカルダーノ!~

  初めに言っておこう。タルターリアとカルダーノは決闘をしていない。なぜならば、カルダーノは大学教授で、もしこの数学の公式論戦に負けたとすれば今の立場でいられなくなるからである。そこでカルダーノは弟子のフェラーリに決闘を受けさせることにした。弟子が負ける分には自分の立場が危ぶまれることが無いからである。しかしこのフェラーリがとても優秀な数学者で、3次方程式の解の公式の経験からこの時点ですでに4次方程式の解の公式を編み出していたのである。タルターリアはカルダーノより優秀であったと言っても過言ではない弟子のフェラーリに敗れ、数学の歴史から消えるのであった。

4次方程式の解の公式まとめ

4次方程式の解の公式(もはや見えない・・・)

まとめ

 今回は「数学の決闘」についてお話しました。歴史上、政治的にも経済的にも力を持っていた数学ですが、「自らの数学力を示す方法」が必要とされた良い例だと思います。今ではこの決闘が形を変え「数学オリンピック」という形で残っています。

 また、代数学が誕生したころは、方程式の定義や二次方程式の解き方について考えられる程度だったものが、1000年も経たずに4次方程式の解の公式まで編み出されてしまったのは、歴代の数学者はもちろん、歴史の表舞台に立てなかった数学者たちの努力の積み重ねだと思います。
 
 次回はいよいよ1600年代、数学の発展が急速に進み、「解析学」が誕生した経緯をお話します!数学が好きな人も、数学に少しでも興味が沸いた人も、また見てくださいね!

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